【Suck of Life】
YU-GI-OH×BAKURA
 冬眠中の小動物か、嵐の晩の子供。
 口元まで引き上げたシーツに包まって、白い身体を丸めて眠るバクラにそんな感想が浮かぶ。
 少々可愛く例え過ぎたかと、シーツに収まり損ねてマットに流れる硬めの銀髪を弄っていた遊戯は口元に苦笑を浮かべた。
 就けっぱなしの豆電球が落とす朧げな光の下、ベッドサイドの時計の針は夜明けにはまだ遠い。
 寝付きも寝起きも良くないバクラだが、一度寝付いてしまえば眠りの世界に旅だったまま、呼べど暮らせど目を覚まさない。無機質な毛先に飽いた指先が額に掛かる前髪に伸びても、多少引っ張ったくらいでは絶対に起きないことを遊戯は経験上知っている。
 前髪の下の額はいつも冷やりと体温が低くて、どれだけ情欲の熱に浮かされようとも、終わってしまえば灯油の切れたストーブみたいに素っ気無かった。
 むしろ、屈葬された死骸だろうか。
 蒼白く強張った身体と冷ややかな体温に、遊戯は感想を改めた。
 無駄に流した汗が気化するせいか、情事の前より後のほうが体温が下がることはこの前気付いたばかりだ。
 だから、触れた額がいつもにまして冷たかったことも、せいぜい今日はちょっと無理させすぎたか、くらいにしか思わなかった。


「……」

 気楽に寝そべっていた遊戯が異変に気づいたのは、蚊の鳴くように小さな声からだった。
 音声と言うにはあまりに頼りない音の波に、髪を撫でていた遊戯の指が止まる。布越しの小声で内容は聞き取れなかったが、確かにこの男の声だったと思う。
 髪を撫でられたのが鬱陶しかったのか、それともただの寝言か。
「…何か、言ったか?」
 一度眠ったら目覚ましの罵声にも黙秘を決め込むバクラからは、当然というかやはり返事はない。長い前髪とシーツの防護壁に遮られた素顔を暴こうと、目元に被さる髪を払いのける。人形めいた面差しと、固く閉じられたままの瞼が目に入った。
「気のせいか…」
 何だかんだですっかり見なれてしまったいつもどおりの寝顔である。よく眠っている様子に緊張が解けるのを感じる。
 だが、髪から滑らせた指が触れた頬が、本当に人形のように冷たかったので、吐き出しかけた安堵の吐息があわやの喉元で押し留められた。

 いくらコイツの体温が低めとはいえ、これはいくらなんでも冷たすぎやしないだろうか。

「おい…」
 血の気を失った蒼白な顔に、胸の内に柄にも無い不安が湧きあがる。何か反応は帰らないかと性急に触れた頬は、冷え切っているにも係わらずじっとりと流れる嫌な汗で遊戯の指先を滑らせた。
「…っ!」
 返事の帰らない不安と焦燥に、他に手段がないかのように意識の無い身体を揺さぶる。少しでも暖めようとシーツごと抱き起こしてみたが、目元に影を落す長い睫毛はぴくりとも動かなかった。
「なあ…起きろよ…」
 沈黙に耐えきれず吐き出された声は、情けない程に震えていた。
 まさかこの男が死ぬなんて思いはしない。今までだって、幾度と無く死にかけたときでも、この男は死神を欺いてヘラヘラと甦ってきた。
(大体…なんで俺がこいつなんかのことでこんなに焦ってるんだ…!? くそっ!)
 そんな筈は無い、そんなことがあってはいけないと、正体不明の不安を打ち消す様に激しく首を振る。バクラの肩を掴んで震える拳を睨みつけ、拳よりもみっともなく打ち震える心に言い聞かせるように。そう、よりにもよってこの自分が、よりにもよってこの男の安否に心乱れるなど、太陽が西から昇るくらいありえぬことなのだから。
「いつもは殺しても死なないくせにっ…ふざけるなよ!! バクラッ!!!」
 痛切な叫びが喉をついて出た。
 それが功を奏したのか、次の瞬間あまりにも絶妙なタイミングで腕の中の半死体がくわっと目を見開いた為、この瞬間まで確かに切望していた彼の覚醒は、安堵を凌ぐ驚愕で危うく遊戯の心臓を止めかけた。


「ギャ!」
 棺桶を開けて中の死体と目が合った気分だった。喜びより先に立った慄きに、遊戯はついつい諸手を上げて飛び上がる。
「うあ」
 結果、抱えられていたバクラの身体は腕の中から落下して、マットに重く崩れ落ちた。一言うめいたきり動かないバクラに、遊戯ははっとして我に帰る。仮にも具合を崩していた相手にあんまりな仕打ちだった。
「…お、おい? 大丈夫か!?」
 自分で取り落としておいて大丈夫も何もあったものではないが、恐る恐る肩に触れてみる。意識は一応戻っているらしく、うーんとうめいて薄く開かれた眼はしばらく宙を見つめていたが、のろのろと焦点を結んだ瞳が遊戯を確認すると、あからさまにその眉が寄った。
「………恨みでもあんのか…テメ…」
「…………すまん」
 謝罪と共に自責の念でうな垂れる。恨みが無い、といえば嘘になるが、半病人を痛めつけてまで晴らしたい程の陰湿な怨恨ではない。
 バクラは遊戯を目線だけで一瞥すると、億劫そうに重い瞼を閉じる。まだ頭がぼうっとしていて、身体にも上手く力が入らない。失った体温を取り戻そうと早鐘を打つ脈動が、頭の中から直接鼓膜に響いて何だか妙な感覚だった。
 体温が回復してくるにつれて、冷たい汗に湿った肌とシーツの感触が薄ら寒くて思わず身震いした。
「寒ィ…」
「ああ…、ちょっと待てよ」
 バクラの声に気付いた遊戯は、手近のティッシュを引き出して額に浮いた汗を拭ってやる。意外なことにその手つきはかなり丁寧だ。
 傲岸不遜な暴君らしくもない甲斐甲斐しい態度に、バクラは思わずまじまじと彼の顔を見つめてしまう。千年に一度の親切か、それとも只の気まぐれか。
 いつもは欲求だけ満たせば朝を待たずに帰路に着く遊戯だから、朝に弱いバクラが眠りから覚めた後に彼の姿を目にすることはあまりない。まして、こうして世話を焼かれるなど、初めての経験ではないだろうか。
 遊戯は遊戯で、この強かで狡猾な盗賊野郎がここまで弱っている場面など想定外で、暴君に徹しきれない良心が罪悪感にきりきりと痛んでいた。度を越した情欲で必要以上にバクラを責め苛み、気絶に追い込む夜は珍しくは無かったが、見掛けよりも丈夫に出来ている彼は意識が戻ればけろりとしたもので、その点に関しては遊戯は彼を信頼していた。
 全く信用のならない相手とはいえ、その頑丈さだけは手前勝手に信用していたのに。
「具合、悪かったのか?」
「……違ぇよ」
「そうか…」
「…ま、どれだけ健康でも、あんだけ好き勝手されりゃ具合なんかすぐ悪くなっちまうだろーがなぁ…」
「う…」
 乾いた声で真っ向から非難されて、二の句が継げずに小さく呻く。後ろめたさで一杯の遊戯、という珍しいものに気を引かれたのか、いつものことだ気にすんなと、バクラから到底励ましとも思えぬフォローが寄せられ、遊戯はますますしょげ返った。

 遊戯とバクラの関係は、有り体に言ってしまえば体のいい捌け口というやつで、互いに充足していれば全く必要のない仮初の関係の筈だった。
 それぞれ脳裏に別の人間を浮かべながら、身体と心の足りないところを奪い合う。押しかけて行くのは大抵は遊戯だが、迎えるバクラも余程機嫌が悪い時を除けば、眉を顰めながらもドアを開けてくれる。利用と便乗のギブアンドテイク。
 そんな関係がズルズルと続いて、もうどのくらいになるのだろう。
 一応特定の相手がいる遊戯だから、バクラを訪ねる時というのは大体ギリギリまで鬱屈が溜まった時に限られてくる。むしろ深刻なのは心の隙間で、それを無理矢理身体で埋めるような交わりだから、いつも辛い無理を強いている自覚はあった。
 今日は特に酷かったと思う。理由は痛いほどに自認していた。

 数日前、質の悪い白昼夢のように唐突に始まり、そして過ぎ去ったバトルシティ。平穏な日常に戻った今では、もう何年も前の話のように思えるほどの怒涛の二日間。
 そして、その終焉と共に、自らの夢を実現する為、遥か遠くへと飛び立ってしまった彼…。
 門出を祝福する気持ちとは裏腹に、これが永遠の別離になるかもしれないと気づいた時にはどうしようもなく手遅れだった。文字通りの最後の決着。彼はすでに海の彼方で、代わりに自ら掴み取った終わりの始まりはすぐ目前に迫っていた。
 無くした記憶とは全く別に、胸の奥にぽっかりと口を開けた虚空。それが記憶を取り戻す代償と理解したとき全身が泡立った。
 代償となるのは当然彼だけではない。かけがえのない相棒、大切な仲間…。

 何もかも、全て。

 ようやく見えてきた迷宮の出口を抜けてしまえば、おそらく自分はもう二度と皆と過ごした日々には戻れない…。
 覚悟していた筈なのに、心臓を締め付けられるような喪失感は、記憶を取り戻せるという満足感よりも遥かに大きくて、手放したくないものは余りにも多すぎた。
 せめて忘れまいと思い起こすたび、ひとつひとつの重みに耐え切れなくなって、気が付いたら奴のマンションの前に立っていた。
 失いたくないもの全てに目を背けて夢中で駆け込んだ逃げ場所。
 失うことを恐れずに済む、唯一の相手がいる場所へ。


「…王サマの眉間が随分ヤバイことになってるぜ」
 調子が戻るまではと、無駄口も叩かず安静第一で横たわっていたバクラだが、体力の回復と同時に開いた視界にまず目に入ったのは、陰鬱を具象化した石像のように固まっている遊戯の姿だった。彼の眉間の皺はいつものことだが、日頃見なれたそれより本数にして二本程多い。大分前から動きの止まっている手には束ねたティッシュの固まりを握り締めているが、その視線はバクラを通り過ぎてどこか彼方を凝視している。
 声をかけられた遊戯は、初めてバクラの存在に気づいたかの様にびくりと肩を震わせた。
「あ…?」
「あ、じゃねえだろ。寝ぼけてんのか?」
「いや…ちょっとな…。それより、もう大丈夫なのか?」
 どうやら深く突っ込まれたくない内容らしい。わざとらしく話題の転換を図る遊戯の様子に彼の内情を悟るが、遊戯の暗黒部分にはあまり触れたくないので深く追求しないことにした。自分にとって重要とも思えないし、寝た子を起こしてとばっちりを食うのは御免だった。
「…別に、病気とかじゃねぇよ。大体あのくらいで具合悪くする様なら、初めてテメエにヤられた晩にオレ様とっくに死んでるぜ? さっきはムカついてたから意地悪言ったけどな。何だ、テメエまさか気にしてンの?」
 似合わねえと、冗談めかして笑うバクラにつられ、強張っていた遊戯の表情も少し弛む。似合わないと言われても、バクラの具合が戻って安心したのは事実だった。
 それを隠したくて、遊戯は努めて底意地の悪い笑みを口元に貼り付けた。
「…ま、そう言われればそうだな。お前はベッドの上での死だけはありえない系の人間だもんな」
「あァ? ヒトデナシは野垂れ死ねって言いてぇなら言えっつーの。テメエこそ死んでも墓石に名前彫ってもらえねーくせによっ」
「は、本望だぜ。オレの墓標に名はいらぬ、死するならば戦いの荒野で…、ってか?」
「……王サマ、何か読んだ?」
「んー、城之内くんに漫画借りて、昔の名作ってヤツを少しな」
「あっそ。相変わらず仲いいのなぁテメエら」
 先程までの張り詰めた空気が大分和らいだのを感じ、バクラは軽口で返事を返しながら、まだ多少朦朧とした頭を左右に強く振る。体は休息を欲している筈なのに、どうにも寝直そうという気が起こらない。肉体よりもよっぽど疲弊しているくせに、表面上見えないところで精神が寝たくないと我が侭を言っている感じがする。
 その原因は薄々察していた。眠りを望む意識を妨げるのは、悪夢の欠片で出来た忌々しい障壁だ。
 思い起こす様に瞼を軽く閉じる。
 身体に影響を及ぼすほどの、タチの悪い夢を見たのは今日が初めてだった。
 だが、それ程強烈な内容だった筈なのに、目が覚めた今となってはどうしたことか、微かな情景以外何も覚えていないのだ。たかが夢だというのに、そのことがどうにも落ち付かずに引っかかっていた。

 それでも、ただ一つだけ覚えていることがある。
 乾いた砂塵と、むせ返るような血の匂いの中、そこには自分の他に確かにもう一人誰かが居た。

 それが一体誰なのか、夢の中の自分には解っていたと思う。内容を思い出せないのに、不思議とそのことは確信出来るのが逆に苛ついた。こうして現実に戻ってきた自分には、その輪郭すら儚く霧散し思い出すことは叶わないのに、脳髄に響くようなイメージだけが貼り付いて離れない。
 覚醒と同時に泡沫と消えてしまった夢の破片が、酷く神経を引っ掻いた。


「…なんか、ヤな夢見たぜ」
 ぼそりと、疲れている筈の口が意図せず動いて言葉が漏れた。シャツを羽織り立ち上がりかけた遊戯が怪訝な顔で振り向く。
「夢? へえ、お前夢見るのか」
「たまにだけどな。王サマは見ねェの?」
「……どうだかな。何、どんな夢だったんだ?」
 実は、遊戯は夢を見たという経験がない。少なくとも、千年パズルが相棒の手で組み立てられてから、彼と過ごした現在の世界では。それ以前はどうかと考えてみても、そもそも記憶が無いので夢も現もあったものではない。だから、同じ千年アイテムに宿るバクラが見る夢というものには多少の興味はあった。
 だが、バクラはしばし考え込んだ後、残念そうに首を振った。
「駄目だ…忘れた」
「なんだ。つまらんな」
「テメエに落とされるまでは覚えてたんだがなぁオイ」
「………」
 当て付けの悪意に満ちた言葉に、遊戯は視線を背けて舌を打つ。根に持っているというより、半分以上はからかっているだけなのだろうが、どうしてこの男はいちいち気に障る言い方をするのだろう。
 勿論いつもなら、バクラの悪意の一言には兇悪な皮肉をもって返礼する遊戯だが、今日は思いのほか引け目が強いのか、上手い言葉が浮かんでこない。
 返事もせずに立ち上がった遊戯に、バクラはやや意外そうな声を上げた。
「あれ、王サマ帰んの?」
「ああ…そうだな。邪魔しないからお前はさっさと寝ろよ。まだ顔色悪いぜ」
「…」
 柄にも無く労わられ、途端バクラの眉根が捻じ曲がる。今のはとても遊戯が自分に向けて言う台詞とも思えない。看病されただけでも予想外だったというのに、心配りの言葉など驚天動地の極みだ。
 ついぞ言われたことのない優しい言葉のせいで、見慣れた遊戯の背中がとても遠く感じられた。
(…つまりアレだ、日頃それだけ虐待されてるってことじゃねえか?)
 思い当たって、ちょっとだけ腹が立った。
 そして何よりぞっとした。

 背を向けていた遊戯はそんなバクラの疑惑には気付かないまま、椅子に引っ掛けた千年パズルに手を伸ばす。ずしりと掛かる重量に、どういうわけか気分までも重くなったような気がする。
 正直なところ、相棒の意識が眠っているうちは家に帰らないつもりだった。だからここを出てどこに行く当てもないのだが、適当に街を歩いたところで未練がましい自分の足は、きっと港だとか海馬ランドだとか、どうしようもない切なさがこみ上げる場所に向かってしまうに違いないのだ。それでは、わざわざ家を出た意味がなくなってしまう。
 かといって、このままこの部屋で朝を迎えるというのも気が進まない。

 何故なら、先程気がついてしまったから。
 もしかして自分は、考えていたよりもずっとこの男に執着していたのかもしれない可能性を。
 握り締めた鉄鎖が、がちりと音を立てる。
 力の入りすぎた両腕に、知らずのうちに鳥肌が立っていた。



「…気ッ色悪」
 それぞれ居心地の悪さに凍り付いていた二人だが、止まった時間を動かしたのは心の底からうんざりとしたバクラの呟きだった。
 まだ調子が戻っていなくて吐き気でも催しているのかと思い、扉の前で立ち尽くしていた遊戯は慌てて振り返る。
 ベッドの上のバクラは確かに気分が悪そうに俯いていたが、次の言葉で振り向いたことを後悔した。
「どうしよ……王サマに心配されちゃったよ…オレ様もうおしまいかも…」
 うげげ、と口元を抑えるバクラに、遊戯の両肩ががくりと下がる。
「あのな…人を何だと思ってるんだお前は……、折角心配してやってんのに」
「し、心配!? 今、マジで心配って言った!? やべえッ! 決定的だぜ! 死兆星見えちまった!」
 ぎゃーぎゃーとひとり勝手に死期を悟って喚くバクラに、握り締めた遊戯の拳が今度は憤りで細かく震える。こいつがどういう人間か骨身にしみて解っていたはずなのに、心配などした自分が愚かだった。
 バクラはひとしきり騒くと、信じられないものを見る目つきで遊戯を見上げてきた。
「王サマさぁ、アンタまさかとは思うけど、寝た相手に情湧いちまうタイプだったわけ? それとも沸いてんのは情じゃなくてアタマの方?」
「…どういう意味だ」
「そのまんまの意味だろ。だからさー…、オレ様はアンタのこと愛情と欲情を取り違えないオトコだと思ってたワケよ。実は結構道徳家だったんだなぁ」
 感心した様に呟かれた内容に遊戯は顔をしかめる。自分だって昨日までは確かにそのつもりで割りきっていた筈だったのに。
 よりによって当の相手に割り切り損ねた感情を見抜かれていた。
「ハッ…それで何だ? 見直したか?」
「うん。すっげえ意外だった。はっきり言ってキショい」
「あぁ?」
「だってそうだろ。正直に言うけど気ィ悪くするなよ。テメエがどう思ってるかは知ったことじゃねえが、少なくともオレ様は今までテメエのことは、時々夜中にやってくる手足が生えた巨根バイブだと思ってました」
「………………ああ、そう…」
「んで、いつもは鬼畜で外道のそいつが、今日に限って突然機能外の配慮なんかしてきたら、どうだよ? キっショくねぇ?」
「そりゃ……確かにキショいだろうが……」
 根本的に一番キショいのはバクラの想像力だと思うが、あまりの言われように流石の遊戯も口篭もる。度を越えた脱力感が怒りを上回っていた。
 ここのところの憂鬱癖でついつい深刻に思いつめかけていた問題を、気色悪いの一言で片付けられてしまったのだ。袋小路にわだかまっていた感情が、穴の開いた風船のようにしぼんでいく。全く酷い取り越し苦労をしたものだった。
 自分は今までバクラに対して、かなり人権を度外視した行為を重ねてきたと思っていたが、何のこと無い、全くお互い様だったということだ。
「…で、ホントの所はどうなんだ、道徳愛好家の遊戯サンよ? まさかオレ様に惚れたとか抜かすなよな?」
「それこそまさかだぜ。オレは貴様のことは大ッ嫌いなんだからな。何がどうなったってそれだけは変わらないぜ」
 憮然と吐き捨てると、バクラは声を上げて笑い出した。闇に響く音程の狂った狂喜。嫌いと言われてこんなに喜ぶなら、いっそ嫌がらせに真逆のことを言ってやれば良かったかとも思う。
 ようやく笑いの虫を収め、顔を上げた彼の瞳は悪戯っぽく光っていた。
「……そりゃ良かった。オレ様もテメエのことは大大大大ダーーーーイッ嫌い、だからな。それに情が湧くっつったって、色々あるもんな。色情とか劣情とかな。アンタも大変だねェ、本当は薄情なのにそのくせ多情者で、仲間内には人情家を演じるのってどんな気分?」
 ベッドに寝転がったまま、顔をしかめて立ちつくしている遊戯を上目遣いに見上げてやる。一瞬彼の目線に憎しみの火が灯ったが、視線を逸らさずに見つめ続けたら、やがて遊戯が折れた。図星だったのだろう。
「…御丁寧な精神分析ありがとよ、余計なお世話だ黙ってろ」
「わっぷ」
 小さな勝利に気を良くしてにやにやと笑っていたら、投げつける様に頭の上からシーツをすっぽり被せられてしまった。シーツは各種体液にまみれていて御世辞にも感触がいいとは言い難い。随分とあからさまな八つ当りをしてくるものだ。

 ふと、以前遊戯に"嘘をつけない莫迦正直"とからかわれたことを思い出した。だが、これを言えば遊戯はさらに怒るだろうが、この様子では遊戯の方だってお互い様ではないだろうか。
 実を言えば、先程まで遊戯が憂鬱に落ち込んでいた要因は薄々勘付いていた。自分も彼も、立つ位置が多少違うだけで、結局のところは同じ穴の狢だ。彼の考えていることは、バクラにも何となく察することができてしまう。
 どうせ別離の覚悟が決まらずうだうだと落ち込んでいたに決まっている。この自分相手にまで情をうつして、ともすれば割り切り損なう彼のことだ。当然他の相手に対する未練は容易く絶ち切れるレベルのものではないのだろう。
 だが、義理も人情も少なくない仲間を何人も持っているくせに、友達甲斐のないコイツは、そういう連中の前では毅然と格好良い遊戯王を押し通して、いよいよどうしようもなくなってからバクラのところに殴りこんでくる。始末におえない見栄っ張りだった。
 行き場を無くした激情を瞬間的には身体で誤魔化せても、根本的な解決でない以上、再度の訪問時はさらなる歪みを伴う悪循環。
 いつ頃だったろうか。何度か関係を重ねるうちに、遊戯が本心では記憶を取り戻すよりも、現世に留まることの方に未練があると気がついたのは。
 遊戯のあまりの甘さに呆れると同時に、嫌な予感がよぎったのを覚えている。だから、とうとう真実の扉へのピースが揃った段階に来て、思い詰めるあまりに記憶探しを投げ打ちかねない奴の惨状を見て案の定だとため息をついた。全く、そんなことをされては自分の計画が狂ってしまう。
 遊戯には、何が何でも真実の扉を見つけてもらわねばならないのだから。
 そして…、


「おい…眠ったのか?」
「!」
 自らの思考に没頭していたバクラは、問い掛けの声にびくりと背筋を硬直させた。シーツをふっかけられた時点で、遊戯はもう自分には用が無いものだと思っていたのだ。
「……なんだよ。帰ったんじゃなかったのかよ、王サマ」
 もぞもぞとシーツに包まったまま、体の向きを変えて遊戯を見上げる。眠いという自覚はなかったが、遊戯の気配の動向に気づかなかったということは、実際半分くらいは夢うつつだったのかもしれない。
 遊戯はバクラの問いに答えぬまま、狭いシングルベッドの端に腰を落とした。
「寝るなよ。オレは眠くない」
「じゃあどっか行けば」
「つれないな」
「人生とは得てして無情なモンです。オヤスミ」
 本当は大して眠る気は無かったのだが、寝るなと言われれば意地でも眠りたくなる。取り付く島を無くした遊戯は置いてきぼりの子供のように唇を尖らせた。
「寝るなと言ってるだろ」
「…聞く耳持つかよ、邪魔すんな」
「予期せぬ妨害も人生の無情だろ。静かにしてるから居させろよ」
「テメエの命令が誰にでも通ると思ってんじゃねぇよこのバカ殿っ」
 肩を掴んでくる遊戯の手を鬱陶しげに追い払いながら怒鳴り付ける。改めてシーツを被り直すとバクラはさっさと横を向いてしまった。
 事実、酷使された肉体は随分と疲れている訳で、明日の為にももう少しは睡眠を取っておきたい。とりあえず眠ってしまえばこちらの勝ちだ。
 だが、数分としないうちに不埒な夜這い人によって安眠は侵害され始め、閉じた瞼に最早安息は許されなかった。
「………」
「…………」
「……………」
「……ッ、…」
「………………」
「…寝れねえ、だろ…っ」
 触れるか触れないかのタッチで背筋をしつこくなぞる指の動きに、初めは意地を張って耐えていたバクラだが、その指先が段々他意を持って下方に下がってきたのには流石に身の危険を感じて飛び起きる。
 遊戯は何食わぬ顔をして微笑むだけで、それが余計に癪に障った。
「…なんか言えよ…このッ…」
「ん? 言葉責めを御所望か?」
「違ぇだろ莫迦!」
 遊戯のにやけ面目掛けて、発作的に平手を放つ。だが、眠気のせいで鈍い動きでは大した威力もなく、逆に手首を取られてしまった。
 そのまま上半身をくるりと反転させられ、あっという間もなく圧し掛かられる。どうしてこの男はこういう小手先の芸当ばかり器用なのだろう。
 遊戯の紅い眼が、獲物を捕らえた猫科の獣のようにすうっと細くなる。うっとりするような微笑を浮かべて、耳元に寄せた口唇が低い声で囁いた。
「あまり負担にならないよう気をつけるから…な」
 言う相手を間違えたとしか思えない野暮ったい誘い文句に、バクラの形相が奇妙に歪む。呆れ返ったと言わんばかりの表情だった。
 配慮も遠慮もこの男には無用と実感した遊戯は、それと知って優しい言葉を選んで口にしたのだ。道徳家の遊戯というのも薄気味悪かったが、自覚を取り戻した彼が自分相手に優しくするというなら、それが良心から発するものであるはずがない。何て性根の歪んだ嫌がらせだろう。
「………超うぜぇ。やっぱりテメエは性格最悪だぜ」
「そうか? 貴様ほどじゃない」
「人格についてオレ様に言われたら、人としてお仕舞いだと思わねえ?」
「ま…、貴重な経験というやつだな」
 貼り付けた優しげな微笑の下から、一瞬だけ皮肉げな素顔がのぞく。先程まであんなに沈んでいたというのに遊戯はまだまだ元気そうだ。手首を握り込む力は存外強くて、抵抗すれば力ずくも辞さないことを言外に物語っている。
 バクラは苦虫を噛み潰したような顔をすると、やる気なさげにその身をベッドに投げ出した。気力も体力もあまり残っていないから、出来るだけさっさと終らせてもらいたい。
 センチメンタルな情緒不安定が回復したら、さっさと家に帰すつもりだったので、その後もしつこく居座られるのは正直言って計算外だった。
 こんなことなら放っておけば良かったと思うが、今更遅い。

(…ま、どうせこれで最後だろうからな…)

 無抵抗になったバクラに、遊戯の指が伸びる。
 間近に近づく遊戯の紅い瞳を見ていたくなくて、薄ぼんやりと開いたままだった眼を閉じた。
 唇に触れる感触も、そっと髪を掻き揚げる指先も、気が滅入るくらいに温かい。
 いつの間にか、遊戯に抱かれるときには目を閉じる癖がついてしまっていた。目を閉じてしまうと感じるのは遊戯の体温と息遣いだけで、時々世界に自分たち二人しか存在しないような錯覚を覚える時がある。
 遊戯は群れるのが大好きで、いつも他の誰かと一緒にいるから、こうして二人きりだと何だか妙な気分だった。


 もしも、
 遊戯はもしも、オレ様と二人っきりになってしまったら、やっぱりオレ様相手でも手をつなごうとするのだろうか。

 その時、
 おそらく、オレは……、


「…バクラ?」
「っ!」

 深層に沈みかけていた意識を引き戻したのは、自分の名を呼ぶ少し掠れた低い声。
 大急ぎで意識を表層に引きずり上げる。意識せず、ほっとしたような息が漏れた。危うくとんでもない自己完結をしでかすところだった。
 この世に二人きりなんて、まるで恋に狂った少女の妄想じゃないか。遊戯の妄想癖が感染してしまったのだろうか。
 薄く開けた瞼の間から、多少の恨みを込めて遊戯を睨む。都合の悪いことは全てこの男のせいにしてしまいたい。しかし一体何を勘違いしたのか、遊戯は熱を煽り立てる動きを止めると、子どもをあやす様に優しく髪を撫でてきた。初めて見る慈愛に満ちた微笑に、バクラの呼吸が一瞬停止する。
 今すぐにでも目線を逸らしてしまいたいのに、釘付けにされた視線は固まったように動かせない。
 自意識過剰の莫迦なのか、それとも只の嫌がらせか。遊戯がこういうところは莫迦でないことは知っているから、これはきっと嫌がらせなんだろう。
「やめろよ……」
「…何故だ?」
「必要…ねえ、だろ…」
 嫌がらせだとわかっているから、バクラは極力反応しないように身体を堅くして、努めて意識を上の空にする。
 そうしていないと、何か途方も無い勘違いをしでかしそうな不安に陥るからだ。
 時は巡って、迷路の出口は見えてしまった。真実の扉の向こうには、あらゆる未練も不確かな期待も持っては行けない。
 そう、遊戯の覚悟が決まったのなら、きっとこれが最後だ。

「遊戯…」
「何だ?」
「……死にそう」
「なっ…」
「…莫ァ迦、嘘だ…、ッ…」

 思惑はどうあれ結果として、今の自分は自己犠牲の人身御供だ。
 ひょっとして、自分も遊戯と同じアマちゃんなんじゃないか。
 身勝手に繰り返される遊戯の動きに冷めた身体を浮かされながら、剥離しかけた心の底でふとそんなことを思った。




「……結局…夜明けちまったじゃねーか…」
 ブラインド越しに瞼を刺す曙光に、バクラはまぶしそうに顔を背けた。反らした視線の先には、まだ薄暗い獏良了の部屋。遊戯の姿は遺留品も含めて影も形もなかったが、どこからか水飛沫の跳ねる音が聞こえてくる。
 遊戯が部屋から出て行ったことには全く気づかなかったから、多少は眠ることが出来たらしい。まだ半分閉じられている瞼を擦り、シーツを被ったままのそのそと起きあがる。
 奴の居場所は見当がついていた。まだ下肢に残る違和感と鈍痛を堪え、危なっかしい足取りで目的地に向かう。
 本当はまだ惰眠を貪りたいという欲求がある。だけれども、どうしてもひとつだけ、言っておきたいことができてしまったのだ。
 ずるずると、バクラは彼の元に向かう。

「起きたのか」
 脱衣所の空気はまだ日の出の恩恵を受けておらず、ひんやりと冷たく裸の肌を刺した。洗い物予定のシーツを再び被りなおし、降り注ぐシャワーの音に混ざって聞こえる声に、ぼんやりと一拍遅れの返事を返す。
「…ん」
「シャンプー借りてるぞ?」
「…ああ」
 寝起きのバクラはいつもどこか夢の中を彷徨う風情で、言語中枢の退化は特に甚だしい。遊戯はそれ以上声をかけることを諦め、シャンプーのノズルを数回叩く。
 泡まみれになっている遊戯とガラス戸一枚だけはさんだ脱衣所で、バクラはのろのろと洗濯機の活栓を捻った。
 がらんどうの洗濯槽にゆっくりと溜まっていく無色透明な水道水。何をするでもなく、バクラは水深が深くなっていく様をただ見つめていたが、初めは透明だった水が、次第に嵩を増すうち仄かな青みを帯びる頃になって、ぽつりと重い口を開いた。

「夢……少し、思い出した」
「…ふうん? で、どんな夢だ?」
 余りに小さな声だったけれど、丁度シャワーを使っていなかった遊戯は、耳ざとくその声を聞き逃さなかった。
 ややあって、戸惑うような、まだ眠いようなバクラの声が浴室に届く。
「……赤…」
 眠気に半分塞がれた瞼の裏に浮かぶのは、一面の赤い色彩。日の当たらない地下神殿で、灯る松明よりも紅く紅く燃える瞳で自分を見据える、彼の人の真っ直ぐな眼。
「赤?」
「…ん…、簡単に言うなら……オレ様と王サマがギタギタズコバコの殺し合い…みたいな……」
「………正夢じゃないのか?」
「ア、王サマもやっぱそう思う?」
 どちらともなく苦笑が漏れた。シチュエイションは現実離れしている癖に、覆せない確信にも似た笑えない予知夢だ
 情景全てが紅い印象を帯びているのは、松明の赤い炎か、それとも互いが流す夥しいまでの血の色か、視界を曇らせる血霞のせいか。
 おそらく、どれも違う。
 真新しい傷口から真っ赤な鮮血を滴らせて、死の淵に立ちながらも、それでも微塵も揺らぐことなき炎を宿す、若き王の瞳。
 この光景がどんな意味を持っているのか、まだ自分にははっきりとは解らない。ただ、そう遠くない未来、必ずその意味を知る日が訪れるだろう。
 そして、その日の為に……。
「…な、頼みがあるんだけど」
「珍しいな。高く付くぜ?」
「ツケにしといて」
 風呂場から、呆れたような声と共にシャワーの音が響きだす。遊戯はあまり真面目に聞く気がないらしい。だが、どうしてもひとつだけ言っておきたいことがある。
 決意の証を印すように、洗濯機の給水口を閉じる。バクラはゆっくりと口を開いた。

「……オレ様と、アンタが殺し合う時はさ、頼むから無抵抗で殺されてくんねえかな」

 一気に言ってしまった後には、取り残されたように白々しく響く単調な水飛沫の音だけが残される。余程予想外の内容だったらしく、遊戯はシャワーを流しっぱなしで固まってしまっていた。
「…おい、ちゃんと聞こえたか?」
「………聞こえたけど…、何なんだ、それは」
「だって、オレ様とアンタの殺し合いだぜ? 双方本気出して、楽に死ねると思うか?」
 ガラス戸越しに遊戯の方に視線を送る。立ち込める湯気で、遊戯の姿はおぼろげな所在しか解らないが、しばしの沈黙の後、短く返事が戻ってきた。
「…そりゃ、ムリだろ」
「な? 王サマもそう思うだろ? 血ヘド吐いて骨砕けて内蔵はみ出てもケリつきそーにねェの目に見えてんじゃん? だからさ、ラクに死んでくれよ、な?」
 曇りガラスの向こうの遊戯には見えないと知りつつ、とっておきの笑顔を送りつける。きっと今頃遊戯はあの紅い瞳を、この曇りガラスや湯気よりも曇らせているのだろう。
「…なんで貴様が楽する為にオレが死ななきゃならないんだ?」
「勘違いするなよ。オレ様はアンタに楽させてやりてぇの。今日のアンタはちょっとだけいいヤツだったから、これでも恩返しのつもりなんだぜ?」
「………全く余計なお世話だな。とっとと見捨てて帰ればよかった」
 ざばざばと流れる水音の狭間に、遊戯の忌々しげな舌打ちが聴こえる。千年に一度の親切への返礼のつもりだったのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。心底残念でため息が出た。
「……交渉決裂かよ…、じゃあ仕方ねえけど、当初の予定通り生き地獄をしこたま味わわせてから屈辱フルコースでじわじわ生殺しプランだな。王サマのバーカ。人生ドブに捨てたねアンタ」
 風呂場の戸に背を向けて、大仰に肩をすくめて目を閉じる。その動作のせいで、遊戯の暴虐な襲来に対処しそこねた。
「莫迦はてめえだ」
「わ」
 ガラ、と戸が開く音が聞こえたかと思ったら、強い力で後ろ襟を引かれて浴室に引きずりこまれる。獣が獲物を引き込むような早業に、次の瞬間には避ける間も無く全身ずぶ濡れになっていた。業を煮やした遊戯がシャワーを浴びせてきたということには、随分遅れて気が付いた。
 湯を含んだシーツが顔といわず肩といわず張り付いて、おまけに嫌な匂いが染み付いていて非常に気色が悪い。思い切り眉をしかめると、掻き分けるようにシーツをはがして遊戯をにらみつけた。
「王サマ酷ェッ!! …………!!!???」
 罵詈雑言を叩き出そうと開かれた口が、あんぐりと丸く開かれたまま凍りついた。遊戯はバクラの驚愕の理由が読めずに、不審気に首を傾げた。
 バクラの視線は一直線で自分の頭を凝視しているように見える。
「…何か、オレの顔についているか?」
「………か、か…髪……」
「かみ?」
「…お、お、王サマの…頭がッ!!! 王サマの頭じゃねえーーーーッ!!!!」
 失礼千万な人差し指が指しているのは、やはり自分の頭だった。
「……あ?」
 バクラはひたすら口をぱくぱくさせて、髪、髪と馬鹿の一つ覚えのように繰り返している。何をここまで錯乱しているのだろうか、この盗賊は。
「マ、マジかよ……王サマの髪の毛が……こんな変わり果てた姿に……」
「縁起でもないこと言うなよ。ああ……そういや、貴様の前で髪を濡らすのは初めてだったか? だからって、そこまで驚くか?」
「この程度の驚きで済むほうが奇跡だって!!! イヤ、本当にまだ信じらんねえ。人体の驚異だぜ。オレ様、王サマの髪は恒久的に勃起してると思ってたもん!!」
「ボッ……! …あ、あのな……」
「…朝っぱらからけったいなモン見ちまったぜー。絶対今夜夢に見るって!! 今期最悪の悪夢決定だぜ!! 何だって今頃になってこんなどんでん返しが待ってるかなァ〜もう!! 秘密にするなら最後までちゃんとしといてくれよな無責任!!」
 秘密と言われても、本人には全く隠していたつもりもないのだが。それに、朝っぱらから卑猥な例え話を聞かされた自分の方がよっぽど悪夢だ。しばらくは鏡を見るたび今日のことを思い出して嫌な気分に陥る予感がひしひしとした。
「……ま、最後の最後にとっておきの秘密ばらしってことで、冥土の土産にでもしてくれよ」
 ユニットバスに破壊的に反響する甲高い叫び声のせいで、いい加減耳が痛い。遊戯はバクラに湯が出っ放しのシャワーを押し付けると、そそくさと浴室を後にした。
 バクラも驚愕の原因が曇りガラスの向こうに消えてしまえば、流石に騒ぐのを止めたらしい。今度は比較的常識的な声量で、思い出したように話しかけられた。
「…なァ王サマ、アンタ今、"冥土の土産"って言ったよな?」
 どことなく楽しげな声。答える自分の声も、おそらくは少し楽しげな響きを帯びているのではないだろうか。
「ああ」
「……じゃ、オレ様と殺し合う決心、よーやく付いたってわけだ」
「そういうことになるのかな」
「んだよ、はっきりしねェな。せいぜい死力尽くして殺しあおうぜ? マジで楽しみにしてるから。…もう逃げんじゃねーぞ? 今度逃げてきやがったら、その場でくびり殺しちまうぜ?」
 デートの誘いをするぐらいに、お気楽な声で。遊戯としては、殺し合いがしたいとか、そういうつもりは全く無いのだが、当の相手がその気満々な以上、いずれその日が訪れることだけ確かなのだろう。
 そして、その日は決して遠い日のことではない、予感よりもう少し強い確信があった。
「……ああ…、…もう、逃げないさ。貴様こそ、今度こそは得意の"今回はオレの負け"は使えないからな? 覚悟、しとけよ?」
「言われるまでもねえよ。んじゃ、その時まで」
「…またな」
 再会を誓う、簡潔な別れの言葉。
 服を着終えた遊戯は、振り返らずに足早に去っていく。
 沈黙の下りた空間で、瞼を閉じると、不本意に駆け抜けていくのはいくつもの情景。
 サディスティックなエゴイストの笑い声。いつも不機嫌に皺の寄った眉間。らしくない不安に揺れる表情に、思いがけず息を飲んだ優しげな笑み。
 そして、既視と予知の二つの可能性を秘めた、燃え盛る王者の紅い瞳。
 次に会うときには、お互い今日のことなんてすっかり忘れ、甘えた感傷の立ち入れない激情であの瞳に真紅の炎を燃え上がらせて、自分のことを見据えてくるのだろう。
 そして、次に会う時は、きっと……目の前だ。

 追憶を振り切るように、瞼をそっと押し上げる。景色を霞ませる白い蒸気に、もう、誰の姿も浮かびはしない。


 どこか遠くで、扉の開いた音がした。




 〈END〉
*後書きと言い訳→

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